大阪地方裁判所 昭和25年(レ)39号 判決
控訴人訴訟代理人は、「原審判決はこれを取消す。被控訴人は控訴人に対して大阪市阿倍野区桃ケ池町一丁目四十一番地上木造瓦葺平家建住宅一棟(建坪約十二坪)及び木造瓦葺平家建住宅一棟(建坪約八坪)を明渡さなければならない。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。」旨の判決を求め、その請求原因として、
「控訴人は、昭和二十二年三月頃、訴外三好政二郎が予て被控訴人に賃貸していた請求の趣旨記載の家屋(以下本件家屋と略称する。)を同訴外人から買受け、その賃貸人としての地位を承継したものであるが、同年八月一日被控訴人と協議の上、従来の賃貸借契約を爾後は無償使用貸借契約に改め、返還の時期を定めないで貸渡し、控訴人において必要の生じたときは何時にても返還を求めることができることにし、被控訴人は引続き本件家屋に居住している。ところが、控訴人は本件家屋の明渡を受ける必要が起つたので、やむを得ず、昭和二十三年三月三日附同月四日発信の書留配達証明郵便を以て、この書面到達後二ケ月以内に本件家屋を返還されたい旨を催告し、右の書面は同年同月十四日被控訴人に到達し、同年五月十四日の終了とともに右二ケ月の期間を経過したが、被控訴人は本件家屋を返還しないから本訴に及んだ。」と陳述し、被控訴人の抗弁事実を否認し、再抗弁として、「仮りに被控訴人が本件契約の要素につき錯誤に陥つていたとしても、被控訴人には使用貸借を賃貸借と誤認して意思表示をするにつき次のような理由によつて重大な過失があつたものである。即ち、被控訴人は(一)控訴人から数ケ月前に使用貸借のことにつき話され、夫及び家族等に相談する十分の予裕を与えられ、(二)控訴人に使用貸借証書(甲第一号証)の文言を読聞かせて説明せられ、(三)控訴人から前家主時代の家賃額は本件家屋敷地の使用料額よりも遙に低いので従前通りの条件で賃貸することは採算上忍び難く、一先ず使用貸借にせねばならぬ事情を聞かされ、(四)最後に右使用貸借証書に自ら住所を書き自署したものである。仍て、このような事情の下になお使用貸借を賃貸借と誤認して承諾の意思表示をしたとしても控訴人は自らその無効を主張することができない。」と述べた。<立証省略>
被控訴人訴訟代理人は、主文第一項と同旨の判決を求め、答弁として、
「控訴人がその主張の日時に、被控訴人が予て訴外三好政二郎から賃借居住していた本件家屋を同訴外人から買受け、その賃貸人としての地位を承継したこと、被控訴人が今日にいたるまで引続き本件家屋において居住営業していること、及び昭和二十三年三月三日附同月四日発信の書留配達証明郵便を以て控訴人主張通りの催告が同年同月十四日被控訴人に到達したことは何れもこれを認めるが、控訴人その余の主張事実はこれを否認する。被控訴人は、控訴人の主張するような契約に承諾の意思を表示していない。却つて被控訴人との間の従前からの賃貸借契約に基いて本件家屋に居住し、営業しているものであるから、これが使用貸借に更改されたことを前提として本件家屋の返還を求める控訴人の請求には応ずることができない。尤も、被控訴人が控訴人に対して甲第一号証の使用貸借証書を差入れたことはこれを認めるが、被控訴人はこれを従来通りの賃貸借契約証書と信じてこれに署名捺印したに止まり、これが使用貸借契約の証書であるとは全然知らなかつたのであるからこれにより右契約書通りの使用貸借契約が成立したものということはできない。仮に、甲第一号証の証書の差入によつて控訴人主張のような契約承諾の意思表示が行われたとしても、被控訴人は賃貸借契約をするものと誤解してこの証書を差入れたものであり、しかもこの誤解がなかつたならば被控訴人はこのような意思表示をしなかつたであろうから、被控訴人の承諾は要素に錯誤がある無効のものであり、ひいては控訴人との間の契約を無効にするものである。」と主張し、控訴人の再抗弁事実を否認した。<立証省略>
三、理 由
控訴人が昭和二十二年三月頃訴外三好政二郎から同人が予て被控訴人に賃貸していた本件家屋を買受け、その賃貸人としての地位を承継したことは当事者間に争いがない。
控訴人は昭和二十二年八月一日被控訴人と協議の上従来の賃貸借契約を無償使用貸借契約に改める旨の契約を締結したから、この契約にもとずいて本件家屋の返還を請求すると主張するのに対して、被控訴人は、このような契約につき承諾の意思表示をしたことがないと争うから、先ずこの点について判断する。
成立に争のない甲第一、四号証の各記載に原審証人大辻マツ、原審及び当審における控訴本人並に被控訴本人の各供述(原審における控訴本人、原審及び当審における被控訴本人の各供述中後記信用しない部分を除く。)を綜合すれば、控訴人は、昭和五、六年頃から貸家業を営み、約五十軒の貸家と二軒のアパートとを所有するものであり、被控訴人は小学校四年を終了して昭和十五年一月頃訴外三好政二郎から本件家屋を借受け、以来同所に家族三名と共に居住して煙草小売業を営んでいる六十二歳の主婦であるが、控訴人は昭和二十二年三月頃、賃貸する目的で本件家屋を含む六棟五戸(本件家屋を除く他各一棟一戸)を買受け、同年五月頃本件家屋の賃借人である被控訴人を訪ねて、家主が自分に変つたから後日契約書を差入れられたい旨を告げたところ、被控訴人は自分が名義人となつて借受けるが、従来の家賃は毎月二十五円であると答えたので、控訴人は当時本件家屋を含む六棟五戸の買受家屋の敷地使用料として、前家主名義で大阪市に対し年額一坪一円八十銭の道路占用料を支払つていたが、近い将来右占用料の増額が予想せられており(現に、昭和二十四年九月一日以降年額一坪約三十円に内定)本件家屋建坪合計二十坪分の家賃として年額三百円では貸家業者として採算上到底堪えられないと考え、「買うなら売るし、出るなら立退料を出すが、兎に角一応賃料を拔きにして契約することとしよう。」と話したが賃貸借契約を更改して、返還期限を定めない使用貸借契約にすれば被控訴人は賃借人として従来受けていた借家法の保護を失い、何時でも本件家屋の明渡請求に応じなければならなくなることまでは告げなかつたこと、控訴人が同年八月一日夕刻、使用貸借証書と題して、本件家屋を居住及び営業用として使用するために無償(但し必要費用は借主負担の旨が記載してあり、また返還期限については何の記載もない)で借受ける旨を記載した証書(甲第一号証)を被控訴人方に持参し、先に話をしたとおり、本件家屋を無料で貸すことにしたと言つて右証書の差入を求めたところ、被控訴人は、一応これを読んだ上、右証書の末尾に住所を記入の上署名捺印してこれを控訴人に交付したが、同証書自体には貸主が何時にても本件家屋の返還を請求することができる旨記載されていなかつたことを、それぞれ認めることができる。原審における控訴本人、原審及び当審における被控訴本人の供述中右認定に反する部分は前記各証拠と対照すれば、これを信用することができず、他に右認定を覆えすに足る証拠はない。(なお右契約の証書である甲第一号証には、「大阪市阿倍野区桃ケ池町一丁目四十一番地上木造瓦葺平家建家屋一戸一棟の家屋」を無償で借受ける旨が記載されているから、一見本件家屋一戸二棟の一部についてのみ、従来の賃貸借契約を使用貸借契約に更改したもののように感ぜられないではないが、右の文言が複写紙を使用して記載されていることと当審における控訴本人の供述並に口頭弁論の全趣旨を綜合すれば、右の「一棟」というのは結局「二棟」の誤記であることを容易に看取することができるから右の「一棟」という文言は右の認定をする妨げとはならないものである。)そうすれば右のような事実関係の下においては、被控訴人は自ら煙草小売業を営んでおるものであり、また本件家屋を一応家賃拔きで貸すことにしようとは予め控訴人から話されていたことではあり、右証書を一応読んだ上、これに署名捺印したのであるから、同女が小学校四年の課程を経ただけであつて、夕刻多忙な時刻にあたり熟慮する余裕がなかつたという事情を考慮に加えても、従来の賃貸借契約を使用貸借に更改する旨の契約につき、控訴人が甲第一号証の契約証書を呈示して申込をしたのに対して、被控訴人はこれに署名捺印することによつて承諾の意思表示をしたものであると解するのが相当である。
そこで一歩を進めて、右承諾の意思表示は、法律行為の要素に錯誤があるから無効であるという被控訴人の抗弁について考えると、甲第一号証の記載に原審証人大辻マツ、同大辻由松、当審における控訴本人、同じく被控訴本人(前記信用しない部分を除く)の各供述を綜合すれば、被控訴人は控訴人主張の日に従来の賃貸借契約を使用貸借契約に更改する結果となる本件契約証書に署名捺印をしたには相違なく、また予て一応家賃拔きで貸すことにしようとの控訴人からの話を聞いていたには違いないが、これも控訴人の貸家業としての採算がとれぬ為一応そうしておくというに止まること前認定の通りであり、右契約証には無償貸借とは書いてあつても「借用物件の必要費用は借主においてこれを負担する」旨が記載せられており、被控訴人としては右のように契約証が改められてもこれに特別の意味があるものとは考えず、ただ家主が変つたので引継のために家請証を入れなおすものと考えていたに過ぎないのであつて右契約の結果被控訴人と控訴人との本件家屋使用の関係については借家法の適用がなくなり、被控訴人は同法によつて従来受けてきた保護を失い、控訴人から借家法第一条の二に所謂「正当の事由」がなくても何時でも本件家屋明渡の請求を受けるようになる等のことは全然これを知らなかつたことを認めることができ、被控訴人に対して家屋明渡の請求に応じなければならない旨を説明したという控訴人の原審における供述は前記のとおり信用することができないし、その他控訴人の全立証によつても右の効果が契約証書に明記されていないにも拘わらず、既に相当年輩の女性である被控訴人が当時右の効果を知らなかつたという右の認定を動揺させるだけの証拠はない。そして、被控訴人は、本件家屋に家族三名と共に居住しつつ、当時まで約七年間煙草小売業を営んで来たものであり、控訴人が従来のままの家賃では敷地使用料が高くて採算がとれないから一応家賃を拔きにした契約を結ばうというので本件契約を結んだという事情であるから、もし被控訴人が控訴人に正当の理由がない場合でも、何時にても、本件家屋の明渡を請求されるようになるという本件契約の効果を知つていたとすれば、仮令無償となるにしても、住み慣れた家屋を明渡さねばならなくなるという重大な結果を生ずべき本件契約を締結しなかつたのであろうということは、容易にこれを推認することができ、又、世間一般の普通の人達がこのような場合に身を置いたとしても、借家法の保護がなくなり、何時でも明渡請求に応じなければならなくなることを知つていたとすれば、いくら無償であつてもこのような契約を締結することはなかつたであろうということは経験則上明かであるから、本件契約はこの点において被控訴人にとり、正に要素に錯誤のある契約であると謂わなければならず、従つて、本件契約に関する被控訴人の承諾の意思表示は、その効力を生じないものと解しなければならない。
ところが、控訴人は更に、被控訴人の右法律行為の要素の錯誤は、表意者である被控訴人に重大な過失があつて、被控訴人自らその無効を主張することができないと抗争するから次にこの点について判断を加える。現在一般に普及している法律知識の程度を以てしては、賃貸借契約を返還期限を定めない使用貸借契約に更改すれば借家人は借家法上の保護を奪われ、何時にても家屋明渡の請求に応じなければならなくなるというような法律上の効果は一般人としてこれを知らないのが普通であり、この点について本件契約証書(甲第一号証)に明かな記載がないのに拘わらず、控訴人が被控訴人に対して何等の説明をしなかつたことは前記のとおりである以上、被控訴人がこれを知らなかつたことについて甚しく普通の人としての注意義務を欠いたということはできず他にこの認定を覆して注意義務違反を認めるに足る事実の立証はないのであるから、これだけのことで被控訴人に重大な過失があるものと解することはできず、従つて控訴人の再抗弁はこれを採用することができない。
果してそうだとすれば、本件使用貸借契約が有効な意思表示の合致によつて有効に成立したことを前提とし、これに基いて被控訴人に対し、本件家屋の明渡を求める控訴人の本訴請求は、被控訴人の承諾の意思表示が無効である以上、勿論これを認容することができない。
仍て、控訴人の請求は失当としてこれを棄却すべく、これと結論を等しくする原判決は、結局正当であつて控訴は理由がない。
仍て民事訴訟法第三百八十四条第二項、第八十九条、第九十五条をそれぞれ適用して、主文の通り判決する。
(裁判官 山下朝一 相賀照之 園部秀信)